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●読みもの

技師 下山定則
下山総裁轢断のメカニズムと氏の胸中を推測する

もくじ

はじめに
事件のあらまし
遺体散乱状況からの考察
現場検証と遺体の解剖状況からの考察
錫谷徹 著 死の法医学 下山事件再考を読んで
下山総裁の行動とその胸中
他殺の可能性について
捜査報告書について
おわりに 下山総裁の残したもの

はじめに

 下山事件は周知のごとく、自殺・他殺説が入り乱れ、発生から62年後の2011年現在でも独自に研究を続けている個人が居られるようである。
 筆者は幼少時に鉄道で鉄橋やトンネルを通過する際に、このような場所で列車に跳ねられたり轢かれたりすることを怖いと思いながら、自分がそうなったらどうなってしまうのか?という想像をいつもしていた。また、中学生の時にある鉄道会社の車庫を見学し、ピット(車両の下部を点検・作業するためにレールの内側に掘られた溝)内から車両の下部を覗いていたところ、案内の所員の方から偶然にも、"この車両は昨夜、トンネル内で人を跳ねた車両で拝障器が曲がってしまったので交換したばかりだ” という説明を受けたことがある。その車両はレール上から一番低い部分がモーターである事を知り、血痕などが着いていないか恐る恐る探したことがあった。所員の方が言った ”場所からして自殺だろう” という言葉は今でも頭から離れないのである。
 下山事件は成人してからおおよそのあらましは聞いていたが、やはり現場に近い荒川鉄橋や東武線と交差する常磐線の現場は自殺に適した場所という認識を持っていた。インターネットで検索すると、この事件を独自に調べた成果を公表しているサイトが多数あることを知ったのだが、事件の真相というより下山総裁がどのように列車と接触し、遺体がバラバラになってしまったのかというメカニズムに興味を持った次第である。
 また、初代国鉄総裁、下山定則氏は鉄道愛好家であり、鉄道技師として蒸気機関車の構造に精通していたことが知られており、同じ愛好家の立場から自分が本人だったらどのような行動をとるだろうかと想像した次第である。この2つのモチベーションが本ページの要を成すと言ってよいと思う。
 なお、多くの下山事件サイトを閲覧し、自分なりの考察を進めたが、多くの研究者と同じく筆者にも白黒がつけられなかったことをはじめに報告しておく。
 筆者は事件捜査の専門家ではないが、最初にストーリーを立ててからそれに沿う証拠や証言を集めるという手順と、物的証拠を集めてから現実の状況に至るまでのストーリーを立てる手順があると考えられる。両者がキャッチボールをしながら進行してゆくのかもしれない。
 筆者が経験した機械の信頼性保証の現場では "FMEA=Failure Mode and Effect Analysis=失陥形態と影響解析” と "FTA=Fault Tree Analysis=故障の木解析" と呼ばれる手法がある。前者は小さな部品の失陥が最終的にどこまでどんな影響を及ぼすかを発生確率とともに予測し、重大なものはその危険度を下げる工夫をするものであり、後者はある故障が発生するために必要な要因を複数挙げて、第一原因とその発生確率を検討して再発防止を図るものである。
 FMEAは、小さな失陥でも大事故に繋がる、FTAは、故障に至った要因はひとつとは限らないということを学ぶことが出来、どちらも ”思い込み” を戒めている。
 これを事故・事件捜査に置き換えてみると、事故には最初の始まりがあるが、現場は最後の状況しか示していない、事件の動機はひとつだけとは限らないということになるだろうか? 犯人や動機が特定出来ずというのはメディアが許さないという心理が働くようで、見つかった事実だけでシロクロをつけてしまいがちである。冤罪が起こる原因もここにあるのではないだろうか?
 筆者が興味を惹かれたのは、"全研究下山事件"というサイトで見た遺体の散乱状況の
見取り図であった。 この散乱状況に至るには最初にどのように機関車と下山総裁が接触したのかということを推定し、実証できないかと考えた。そこから自殺・他殺を切り分ける手掛りが得られないだろうかと考えた次第である。物的証拠はこの現場にしか無く、このブツだけで言えることは何なのかを確認したかったのである。そこから派生する憶測はやめ、状況記述には ”異常に” とか ”極端に” といった主観的な形容詞は排除したつもりである。

 なお、轢断とは正確には車輪に踏みつけられることによって身体の一部が離断することを指す。列車に接触して跳ね飛ばされるか、巻き込まれて身体に損傷があっても車輪によって離断しなければ轢断とは呼ばない。

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事件のあらまし

・終戦後、米軍占領下の1949年(昭和24年)6月1日、旧国鉄が発足し、初代総裁として下山定則氏が就任した。
・7月1、2日の両日、当時のGHQが策定したインフレ抑制策の一環として国鉄労使交渉が行われたが決裂し、7月20日までに9万5千人の人員整理を行うことを通告した当局に対し、共産党を母体とする労組は猛反発し騒然とした情勢であった。
・7月5日朝、下山総裁は公用車で本社に出勤途上、日本橋三越に立寄り、そのまま失踪した。
・総裁が定刻に出社しない国鉄本社では大騒ぎとなり、警視庁の捜査も始まった。夕刻、国鉄は行方不明を発表、直ちに臨時ニュースとして国民の知るところとなった。
・翌6日の午前0:26、国鉄常磐線、北千住駅と綾瀬駅中間の東武伊勢崎線と交差する地点を通過した上野初松戸行き最終電車により下山総裁は礫死体として発見された。
・総裁を轢いたのは最終電車の1本前に現場を0:19に通過したD51型蒸気機関車が牽引する貨物列車であった。
・同年1月頃から人員整理の情報が広がり、ストや列車妨害事件が頻発していた。
現場地図 1947年時(昭和22年)の地図も見る事ができます。

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遺体散乱状況からの考察

先の見取り図を参考にバラバラ遺体の各部分の散乱場所を北千住寄りから順番に記す。

・東武線ガードの端から3.33mの進行方向左レール上に油が落ちている。
・油の位置から2.50mの地点に右足首がレールの進行方向左側に位置している。
・油の位置から8.20mの地点に右靴がレールの進行方向左側に位置している。
・油の位置から6.80mの地点にガータが2本のレールの間に位置している。
・ガータの位置から7.40mの地点に左靴が2本のレールの間に位置している。
・左靴の位置から更に7.40mの位置に白布片が2本のレールの間に位置している。
・白布片の位置から3.10mの地点でワイシャツが2本のレールの間に位置している。
・ワイシャツの位置から15.20mの地点に左足首が2本のレールの間に位置している。
・左足首の位置から2.90mの地点に上着が2本のレールの間に位置している。
・上着の位置から6.80mの地点に頭蓋骨から離脱した顔面がレールの進行方向右側に
 位置している。
・顔面の位置から14.5mの地点に腸が2本のレールの間に位置している。
・腸の位置から3.50mの地点に右手腕が2本のレールの間に位置している。
・右手腕の位置から14.50mの地点に胴体が2本のレールの間に位置している。

 衝突したD51型機関車の先輪の左右車輪の直前にはレール上の障害物を踏んだり、乗り上げることを防止するために拝障器が装着されている。拝障器の先端とレールの隙間は50〜80mmあり、仮に右足がレール上にあったとしても足は拝障器によって跳ね飛ばされ、最初に先輪に轢断される確率は低いと考えられる。当該機関車の現場検証によると、右側拝障器が後ろ側に曲がり、右先輪に接触していることが確認されている。
 バラバラになった遺体のほとんどが2本のレールの間に位置しているという状況から、身体は先輪の左右車輪の中間(2本のレールの間)から入り込んだものと推定される。
 先輪は軸箱で支持されているが、軸箱と道床(地面)との隙間は腹這いか仰向け姿勢であれば成人の身体と接触しない程度である。
 軸箱の前部には潤滑油の注入口がある。東武線ガードの端から最初の落下物として認められた油は、ズボン、ワイシャツ、靴下、褌にも付着していることから、身体の一部と注油口が接触した際に飛散したものと推定される。この油は捜査の過程で下山油と呼ばれ、鑑定により95%のヌカ油と微量の鉱物油を成分として検出している。佐藤一により、ヌカ油は植物性だが、当時は機関車の潤滑油として鉱物油と供に使用されていたという報告がされている。
 身体が軸箱の下を潜った後、第一動輪の直前に進行方向直角にブレーキ梁が設置されており、軸箱より低い位置にあるが、腹這いか仰向け姿勢であれば辛うじて接触しない程度である。身体の一部が少しでも浮いていればブレーキ梁に接触する確率が高い。接触した場合、身体はブレーキ梁によって進行方向に引きずられる格好となり、身体の一部が暴れてレール上にはみ出せば第一動輪によって轢断される可能性がある。
 恐らくこのブレーキ梁が進行方向に身体を引きずり続け、左足首、右足首、右手腕が胴体から離脱し、最後に胴体はブレーキ梁の下を潜って発見位置に留まったものと推定される。
 身体が先輪の左右車輪の中間(2本のレールの間)から入り込むに至るには、以下に示すようなケースが考えられる。

1.身体がレールに直角に横たわっていた場合
 機関車の先輪の左右車輪の直前の拝障器によって身体は押しのけられてレール上を滑走し、ある確率でレールの左右どちらかに排除された場合は機関車に巻き込まれて身体の一部が轢断させられる可能性は低いと考えられる。
 滑走の途中で身体が折れ曲がり、2本のレールの間に嵌った状態では巻き込まれると推測される。仮に下山氏が既に死亡していて死後硬直していた場合には、滑走の途中で身体が折れ曲がらず、レールの左右どちらかに排除される確率は高くなると考えられる。しかしながら硬直の度合いは記録・保存されていないのでこれ以上の推測は困難である。

2.線路上にうずくまっていた場合
 拝障器によってレール外に排除されず、機関車に巻き込まれるためには左右の拝障器の内側に身体の主要部位がなければならない。丁度2本のレールの間にうずくまっている状態である。 これを検証するには、機関車のどの部位が最初に身体と接触したか、および遺体の損傷状況を突き合わせる必要がある。

3.線路上に立っていた場合
 力学的に、身体は機関車の前部と衝突した瞬間に進行方向の道床上に叩き付けられると予測される。身体の着地状態により、拝障器によってある確率でレールの左右どちらかに排除される場合と機関車に巻き込まれる場合が考えられる。
 これを検証するには、道床に身体が叩き付けられた痕跡の確認、機関車のどの部位が最初に身体と接触したか、および遺体の損傷状況を突き合わせる必要がある。
 必要に応じ、ダミーを用いた衝突実験が有益と思われる。下山氏の身長と機関車前部の構造から連結器か前端梁と衝突する可能性が高いと推測される。

4.被害者が機関車の通過直前に飛び込んだ場合(又は他者によって押し出された場合)
 ある確率で身体は機関車の一部と衝突し、前方に跳ね飛ばされた後に上記1〜2の状況となり、夫々の経緯をたどると推測される。

5.被害者が機関車前部から飛び降りた場合(又は突き落とされた場合)
 このケースでは身体は機関車と同じ速度で運動しているから床道に着地した瞬間に身体には力学的にモーメントが加わり、前方につんのめったような形になりやすい。従って、身体が着地した直後ではなく、しばらく転がった後に機関車前部と再接触する形になると推測される。 接触した後は4.と同様の経緯をたどると推測される。

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現場検証と遺体の解剖状況からの考察

・右靴は革が裂けているのに離脱した右足には傷が無い。
・現場からロイド眼鏡とネクタイが発見されていない。
・右足首、左足首、顔面、右手腕の4カ所が胴体から離脱しているが、4カ所が全て車輪で轢断されたのか、それ以外の機関車下部によって引き裂かれたのかは判別できない。
・胴体の右腕離断部から心臓が飛び出ている。

 以上の事実から、車輪によって身体の一部が轢断されるには機関車下部に巻き込まれた身体がある確率でレール上にはみ出すことが必要である。
 右靴は革が裂けているのに離脱した右足には傷が無いという事実からは、下山氏は機関車と衝突する前に靴を脱いでいた可能性も考えられる。
 また、機関車下部で身体が引きずられてゆく過程で右靴が脱げ、靴だけ車輪で轢断された後、右足首で再度轢断された可能性も考えられる。右足首と右靴の散乱位置は5.8mの距離があることから、この距離の中で右足首と右靴が2回に渡って轢断される確率についてはこれ以上の言及はできない。
 現場からロイド眼鏡とネクタイが発見されていないことから、機関車の衝突以前に下山氏が外していたのでなければ両者は衝突に際し、機関車のどこかに引っかかり、現場よりかなり遠方で落下した可能性が考えられる。下山氏と機関車の衝突に際し、眼鏡が機関車上部に跳ね上げられる条件としては、下山氏は立った状態で機関車の正面に向いている必要がある。後ろ向きか横向きならば眼鏡は頭部に押されて機関車前方に落下するはずである。また、心臓が飛び出ている状況はこの裏付けになるかどうかだが、機関車前部と身体の接触痕の調査が必要である。
 これらの実証には現場周辺から当該貨物列車の終点までの区間から眼鏡、ネクタイが発見されることが必要である。関係者の証言には下山氏は靴ひもをきつく結ぶ癖があり、本人が靴を脱がない限り勝手に脱げる可能性が低いと言及していることからも、ダミー実験の重要度は高いと考える。

以上から、必要な検証作業を以下にまとめる。

1.機関車の構造と遺体の損傷状況の突き合わせにより、どのような姿勢で機関車に衝突し
 、その後轢断されたかを検証。
2.ダミーを用いた衝突実験。
3.現場周辺から当該貨物列車の終点までの区間からの眼鏡、ネクタイの発見。

以上だが、2.については事件発生から10日後の7月16日の毎日新聞では藁人形で轢断実演を行ったことが報じられている。現代では自動車事故の研究に用いられる精密に人体を模したダミーはあるが、藁人形では人体の硬軟や関節の動きまでは模擬しきれないので、実施したとしても結果の精度については人体の専門家からは疑問が出たと思われる。
 残る、1. 3.については当時の捜査がこれらに着手していたかどうかは確認ができない。
なお、この事件は発生から15年後の1964年に他殺事件としての時効を迎えている。

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錫谷徹 著 死の法医学 下山事件再考を読んで

 この著書は事件発生から34年後の1983年に刊行されたものであり、法医学者の立場で法医学を解説した第一部と、法医学が関わった応用事例として下山事件について解説した第二部から成り立っている。第二部において当時の遺体解剖結果と当該機関車の構造の両面から以下の推論を導き出している。

1.胴体の右腕離断部から心臓が飛び出ている状況と胸腹部の損傷状況から、広い面積を持つ鈍体により胸腹部に強力な外力が加わわった可能性が考えられる、以上から、身体は立った姿勢で正面から機関車進行方向左側の前端梁に衝突した。(この段階で心臓が血管から離脱・停止し支えを失う=即死状態)

2.顔面が頭蓋骨から離脱している状況、および右側拝障器の変形状況、更に給水温め器から降りて拝障器の横に位置する蒸気排出管への毛髪の付着状況。以上から頭部が右側拝障器と衝突した。(顔面が離脱するのは頭部が強力な外力を受けて破裂したことによるもの)

3.機関車の最低地上高と身体に着いた傷跡、および機関車下部に付着している血痕、肉片、布辺、引き擦り痕跡から、機関車との最初の衝突、引き続く右側拝障器と頭部との衝突の後、身体は先輪の左右車輪の中間(2本のレールの間)から入り込み、ブレーキ梁で引きずられ、身体の各部が轢断に至った。

 以上から、私が推定したものの、検証できなかった、立った状態のケースを解剖結果から導き出していた。これに、
2.ダミーを用いた衝突実験
3.現場周辺から当該貨物列車の終点までの区間からの眼鏡、ネクタイの発見
が出来れば、より検証精度を高める事が出来ると思われる。
 なお、顔面は東武線ガードの端から45.53mの地点に落ちており、右足首、左足首が位置する地点よりも進行方向前方に位置することになる。錫谷氏の推論が正しければ、下山総裁が機関車と接触し、遺体がバラバラになるまでのメカニズムは以下のようになる。

1.下山総裁は東武線ガード下で立った状態で正面から機関車左前端梁に衝突する。
2.身体は前方に跳ね飛ばされ、線路上に着地する。
3.レール上にあった頭部が右側拝障器に跳ねられ、頭蓋骨から離脱した顔面が給水温め器の蒸気排出管付近で引っかかる。
4.身体は先輪の左右車輪の中間(2本のレールの間)から入り込む際に軸箱前部の潤滑油注入口に接触し、油が飛散する。
5.身体は機関車下部に巻き込まれ、ブレーキ梁に引きずられながら右足首、左足首の順に轢断される。
6.引っかかっていた顔面が落下した後に右手腕が轢断され、最後に胴体が2本のレールの間に残る。
7.貨物列車の最後尾が胴体の上を通過する。



1.:錫谷徹が著書 "死の法医学" で下山総裁が最初に接触したと推定した前端梁の部位
2.:同、頭部が接触した排障器
3、4:同、毛髪が付着していた給水温め器の蒸気排出管
写真は川崎市生田緑地・青少年科学館に静態保存のD51 408号機

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下山総裁の行動とその胸中

 仮に死体を立たせた状態で機関車に衝突させることは何らかの支えが必要であるから、現場の状況では難しいと考えられる。このことから立った状態での衝突の事実が立証できれば自殺の可能性が考えられる。
 しかしながら鉄道マンであれば、列車の下部に巻き込まれることは遺体がバラバラになることも予想され、その後の処理の大変さは予想がつくと思われる。よって、自殺の手段としては避けるのではないかと推測される。機関車の構造に詳しい下山氏なら、なおのこと冷静に考えられたのではないだろうか?
 下山氏の人物像としては以下が既知であった。

1.鉄道愛好家であった。
2.D51の設計に携わり、国鉄技師長を務めた島秀雄氏と東京帝国大学工学部の同期であり、鉄道省にも同期入省、親交があった。
3.1928年(昭和3年)、札幌鉄道管理局運転課時代に技師として蒸気機関車のピストンリング故障についての報告書を発表しており、機関車の構造には詳しかった。機関区のピットに潜って自ら機関車の下を覗いたこともあったと推測される。
4.1944年(昭和19年)、技術院規格部長として朝日新聞紙上で ”勝利へ一つの鍵 ドイツの実情に見よ 戦争と規格統一” を論じている。
5.事件前年の1948年(昭和23年)、東鉄局長として国営自動車(旧国鉄バス〜現JRバス)の部品についての論文を報告している。

 こうしたことから技師として鉄道に始まり、自動車まで部品という細かい分野に携わっていたことが伺える。一般新聞紙上で規格統一を論じているところから、仕事の仕組み〜世の中の仕組みを変えて行こうとするモチベーションを持っていたと推測される。
 なお、島秀雄氏も下山氏がピストンリング故障の報告書を発表した3年後の1931年(昭和6年)、商工省の規格型自動車の開発に携わっており、両氏は自動車でも共通の接点があったことが伺える。(この規格型自動車にはいすゞという商号が付けられており、現在のいすゞ自動車のルーツがここにある)

 更に関連する資料を探ってゆくと、初代国鉄総裁就任前には以下のような状況下にあったことが伺える。

1.バス事業の戦後復興には整備・修繕が最重要課題であった。
2.輸送力回復のためにGHQより米軍トラック、トレーラ、約8000台の払い下げが国営、民間向けに行われたが、米国製自動車はインチ規格のねじを使用しており、日本のメートル規格の工具が使えず、整備・修繕の障害となっていた。1948年(昭和23年)に報告された国営自動車の部品についての論文の内容は確認できていないが、払い下げられた米軍車両は一時的には使えても、整備・修繕が思うようにできず、却って重荷になっていたのではないだろうか?恐らく、機関車の整備の経験からその対応策について述べていたのではないかと推測される。
3.当時、国営バス事業は路線復旧・拡張を目指したが、民営バス側から反発を招いていた。
4.戦前から国営バス事業の経営は赤字で、早期民営化の声も上がっていた。
5.こうした情勢を踏まえて当時のGHQ_C.T.S. (民間運輸局)は1948年(昭和23年)11月30日に国営バス路線の拡張・新設を一切禁止した。

 このように、当時の国営バス事業は八方ふさがりの状況であったことが伺える。
しかしながら、地方毎の独立採算制の採用により赤字体質から脱却を試みたことが評価され、1949年(昭和24年)6月1日の国鉄発足をもってバス路線の拡張・新設の禁止は解かれた。
 ここには来るべき朝鮮戦争に備えた補給基地として日本の輸送力を早急に復興させたいGHQの思惑が働いたのではないだろうか? もしそうならば、GHQはインチ規格による米軍車両の整備・修繕の障害は大きな問題ではなく、インチ規格のねじも工具もいっしょに補給すれば済むと考えていたのではないだろうか?
 また、1948年(昭和23年)にはアメリカ、イギリス、カナダの3国が軍事上の必要から現在のユニファイ規格を制定しており、GHQは戦後日本の工業復興の機会にユニファイ規格への統合を目論んでいたのではなかろうか? 下山氏が戦時中から唱えていた規格統一も、まさに国運を左右するという認識から来ているものであり、1944年(昭和19年)時点で技術院規格部長という肩書きも併せ持っていた下山氏は戦後、GHQからキーパーソンとしてマークされていたと推測される。
 そして、下山氏の念願の課題であった日本工業規格(JIS)が制定されたのが1949年(昭和24年)6月1日であったのは偶然の一致であろうか? このJIS規格は従来のメートル規格を貫いたが、ユニファイ規格の併用も盛り込まれていたのである。(6月1日はねじの日となっている)
 このように、下山氏が総裁就任直前まで技師としてGHQとの調整作業に携わっていたことが伺える。しかしながら、総裁就任後は技術論など全く通用しない人員整理を迫るGHQからのストレスに襲われることになる。
 下山氏はGHQにとって頼りになる存在だったのだろうか? 

 ところで、自殺の意志のある本人が他殺に見えるような工作をした可能性も考えてみたい。
 参考になるのは、事件の3年前の1946年(昭和21年)に横溝正史が発表した推理小説 ”本陣殺人事件” のケースである。下山氏本人がこの小説のストーリーを知っていたかどうか?
 また、1947年(昭和22年)にはこの小説を映画化した ”三本指の男” が公開されていることから、他殺に見える自殺のアイデアは当時、話題になったと思われる。
 事件発生前には現場付近の17人の下山総裁目撃証言が得られており、自殺を考える者がこれほど多くの人物に目撃されるような行動をとるだろうかという疑問が投げかけられていた。

 ここからは下山総裁の当日の行動と胸中を想像したものである。

 1949年(昭和24年)7月5日当日、下山総裁にはいつものように午前8:45に国鉄本社に出社する意志が無く、自殺する場所を探していた。鉄道マンとして鉄道自殺は避けたい。しかし鉄道自殺以外の方法と自殺を遂げた後の状況には不案内である。国鉄本社に行くまでに鉄道自殺できそうな場所はどこか?
 国鉄は避けたい。自宅の洗足池を通る東急池上線、地下鉄、山の手線上を起点とする京成、西武、小田急、京急が挙る。
 国鉄本社への経路上で公用車から下りて身を眩ますのに適した場所は? 地下鉄? 
 日本橋三越、白木屋は地下鉄のホームに通じている。下山総裁は買い物を装って失踪地点とされた三越の店内に入り、地下鉄のホームに出る。電車が入ってくる日本橋駅側のホームの端から線路を覗き込む。地下鉄なので2本のレールの脇に設置されている集電用の第三レールが眼に留まる。
 ”身体で夫々のレールに触れればショートして感電死だな” ”跳ねられた後に第三レールに触れても感電するだろう。最悪は火災になるかもしれない” そう考えた。
 ”電車の台車と道床までの隙間は狭いから身体は押しつぶされながら引きずられるだろう” そう考えると同時に、自分が良く知っている蒸気機関車の下回りの構造が頭を過った。
 ”地下鉄の職員が死体を引きずり出す苦労やホーム上の乗客の恐怖を想像すると、後々、鉄道マンにあるまじき行為と非難されるだろう”
 そのままやって来た列車に乗り、終点の浅草駅に着いた。自然に足は東武線の改札口に向かっている。東武鉄道の優待パスを持っているが、身分を明かしたく無いので切符を買い、あてもなく普通電車に乗る。
 北千住駅に着くと左手に平行する国鉄常磐線が見える。北千住を出るとすぐに荒川の鉄橋を渡る。
 ”鉄橋の手前で飛び込むか?ここなら遺体は一般の乗客からは眼に着きにくいだろう” ”しかしながら河原は葦が生い茂っていて、ここに落ちても暫くは発見されないだろう” 
 東武電車が左にカーブするにつれて左側を走っていた常磐線が自分の方に寄ってくるのが見える。
 ”そうか、この先で常磐線を東武線がクロスオーバーするんだったな。常磐線を下るときは、いつも上をどんな東武電車が走ってくるのか気になったものだ。今日は逆だな” ”そうだ次の駅で降りて自殺に適した場所を探そう” 
 下山総裁は五反野駅で降り、終列車あたりの時刻まで時間をつぶす算段をした。改札口の駅員に切符を渡し、『この辺に旅館はありませんか?』と聞く。駅員は近くの末広旅館を紹介する。意図したかどうかは判らないが、結果的にはっきりした目撃者を作ることになった。
 さて、目的を遂げるまでに時間があるから自分がこの付近に居ることはなるべくお忍びにしたい。旅館で応対した人間ははっきりとした目撃者となったが、宿帳への記入を促されても『それは勘弁してくれ』と応え、お忍びであることを相手に感じさせることは出来た。
 旅館の2階の窓から遠くを見ながら考えた。
 ”鉄道マンは鉄道自殺はしないと、誰かがそう証言するだろうか?” ”いや、そうとも限らないだろう” と自分に言い聞かせた。
 ふっと、彼の脳裏を数年前に話題になった横溝正史の推理小説 ”本陣殺人事件” が過った。
 ”誰かがそう証言してくれるなら世間は勝手に他殺を疑うのではないか?”
 ”9万5千人の国鉄職員を解雇することなど自分の意ではない。戦地から大勢の貴重な人材が引き上げてきた。この戦争で生き残った日本人としてそんな愚挙は到底出来まい。GHQはインフレ抑制を理由に人員整理を迫ってくるが、これまでGHQとはお互いに落としどころを探ってくることができた。しかしながらこの人員整理だけは落としどころが無い。"
 ”自分が自殺したところでなんの解決にもなるまい。同情は集めるかもしれないが自殺は職務放棄である。しかし殺されたとなれば誰かに疑いがかかる。疑いが晴れるまでは労働争議も沸騰はしまい。永遠に疑いが晴れないという事が落としどころという訳か? 謀殺の準備がどこかで進められているとしたら?” 彼はそう考えた。
 ”自分も自殺したとは思われたくない。ならば他殺を疑わせるには?” ”既に五反野駅の改札掛りとこの旅館の女将には面が割れている。ならばこれから自殺場所の下見がてらに自分の目撃者を作ろうか?”
 こうして夕刻から終電時間までの間、常磐線を跨ぐ東武線のガードの土手に登ったり、そのガードの下を徘徊した。結果として現場付近で17人の目撃者が出てくることになった。
 下山総裁は近づいてくる最終列車通過の時刻を前に、このようなことを考えたであろうか?
 ”列車に轢かれるか? あるいは跳ねられるか? 構造から言って蒸気機関車の方が車輪と道床の隙間が広く、2本のレールの間に身体を入れて頭を伏せていれば身体の上を機関車と貨車はスレスレで通り過ぎてしまうかもしれない。電車なら台車と道床までの隙間は小さいから地下鉄の三越前駅で思案したように身体は押しつぶされながら引きずられるだろう。それは凄惨な姿を曝すことになる。ならば跳ねられて死ぬか? しかし跳ねられたところで線路脇に転がるか、再び列車の下に巻き込まれるか確率の問題である。即死が確実で凄惨な状態にならぬようにするにはどうすれば良いか?”
 ”こんな事で頭を働かせるくらいなら自殺などばかばかしくなってくる。常磐線の最終列車は電車か?それとも蒸気機関車が引く貨物列車か? ダイヤを確認しておけば良かった・・・”

 結果的には最終列車の一本前の貨物列車に轢かれたわけだが、それは偶然であろうか?
 現場は右カーブであり、蒸気機関車の前方視界は進行方向左側の機関手からは死角で、右側の助手がキャブから身体を乗り出して確認する必要があった状況を考えると、飛び込み自殺だったのかどうか判然とせず、結果的にその場で停車することも無かった。 また、当該機関車D51651号機の現場検証により、事件当日は発電機の故障で前照灯を予備バッテリーで点灯していた為、線路前方の視界が通常より悪かったという事情が重なっていた。
 もしこれが最終列車の電車であったなら、運転士は蒸気機関車よりは前方の確認が容易に出来た筈であり、飛び込み自殺と認識したであろう。
 そのような事を鉄道愛好家の下山氏は考えただろうか? 考えた上であらかじめダイヤを確認し、当該貨物列車に飛び込んだのなら "自殺かどうか判然としない事故" になったことで本懐を遂げたことになる。
 しかしながら結果としては遺体はバラバラに飛散し、悲惨な状況を避けられなかったことは鉄道マンとしての最大の汚点であった。

 ところで、場所を東武線のガード下に決め、その時を迎えるまでに次のような選択肢も考えただろうか?

 ”突然怖くなって2本のレールの間に伏せていれば蒸気機関車の最低地上高から考えて無傷で済むかもしれない。もし、そのような結果になったならこういうことにしよう。
『三越に入ったところまでは記憶があるのだが、気が付いたら線路上に居た。どうも列車に轢かれそこなったようだ』” 

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他殺の可能性について

 得られた事実から、当該機関車の通過直前に他者によって線路上に押し出された可能性も疑うことは出来るが、現時点では立証できない。 仮に他殺の動きがあったとしても、同時に下山総裁本人に自殺の意志があるケースも考えうる。

 下山総裁がなかなか出社しない国鉄本社では、考えうる関係先に総裁の行方を訪ね廻っている。その中には当然ながらGHQも含まれていた。下山総裁行方不明の情報はGHQ内でどのような波紋を引き起こしただろうか? ここからはGHQ側の当日の動きを想像したものである。

 なに、シモヤマが行方不明だって!? 首切りのストレスに耐えかねて自殺でも考えているのか? 7月2日の深夜にシャグノン中佐が人員整理への圧力を掛けにシモヤマ邸を訪ねた時の彼の様子はどんなだったのか? 今までシモヤマとは早急に日本の輸送体制を復旧させるべくお互いに腹を割って話し合ってきた。来るベき朝鮮戦争に備えたい我々GHQ側とはベクトルは合っていた。確かにGHQは国鉄の人員整理を迫ってはいるが、それがストレスとなって自らの命を絶つようなことは想像したくないものだ。いや、シモヤマは信頼できる男だし、きっとなにか落としどころを用意していると考えたい。

 今の情勢下の問題はインフレよりは、むしろ国鉄労働者の共産化に雪崩を打たんばかりの勢いと労働争議だ。国鉄総裁が一人居なくなったとしても次の人間が引き継ぐだけで事態はなにも変わるまい。共産化と労働争議をなんとか沈静化できないか? ....
 シモヤマの失踪が事実だとすると、人員整理に反対する分子に拉致されたか? いや、そんな自分の首を絞めるような真似はするまい。しかし疑いを掛けられれば反対分子にとっては命取りになるだろう。
 共産化と労働争議の沈静化の為にシモヤマを利用するとしたら? まさかGHQ内部の分子がシモヤマと接触を始めたのか!? 面倒な事にならぬと良いが。日本の警視庁も動き出すだろう。ここは事態の推移を見守るしかないか? 

 シモヤマは自殺するような人物には見えない。彼には生きていて欲しい....

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捜査報告書について

 この報告書は1950年1月に”文芸春秋” ”改造” 各誌に流出の形で掲載され、自殺か他殺か明確な結論は控えている。恐らく筆者がこれまでに記述した事は当時の捜査本部でも議論されていたと思われる。
 もし、必要な検証、調査を全て行い、ロイド眼鏡、ネクタイが発見されれば、当時の捜査本部は他殺説を否定できる自信はあっただろうか?

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おわりに 下山総裁の残したもの

 結果として彼は他殺の疑いを残して、インフレ抑制と、日本が共産化することなく、極東の防共の砦となったことは当初のGHQの計画通りであった。
 下山氏は初代国鉄総裁を引き受ける前は、政権に出馬する意向であり、本人も暫定総裁のつもりだったことは既知である。
 かような情勢の下で世の中の力学が巧く釣り合いが取れるような策を、東京帝国大学工学部卒の技師は思案したのだろうか?
 今頃、彼岸では同期の島秀雄氏と何を語り合っているだろうか?

下山:『力学上の釣り合いなんて人間が勝手に考えたものだね。そもそもこの世に釣り合うものなんて無かったんだよ。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・
 機関庫のピットに潜り込んで機関車の下を覗いていたあの頃が懐かしい・・・』

島:『しかしお前、機関車の下を覗くんだったら常磐線の東武線ガード下はやめといた方が良かったな・・・』

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参考サイト&文献
下山事件資料館
全研究下山事件
下山事件を歩く
無限回廊-下山事件
錫谷徹 著 死の法医学 下山事件再考 北海道大学図書館刊 1983
成瀬京司 著 D51のメカニズム 山海堂刊 2007
細川武志 著 蒸気機関車メカニズム図鑑 グランプリ出版刊 2003
中川洋 論文 戦後復興期の国営自動車事業

 

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