X
回想録 伊豆急編

 小学校に上がる前年の昭和36年、自宅の前の東横線上を試運転の為に走るハワイアンブルーの電車は ”12月開通 伊豆急” という張り紙が功を奏して、私の両親に正月の伊東温泉への旅行を決めさせたようだ。
 当時、箱根、熱海、伊東と言えは温泉旅行のメッカであったが、その先の伊豆半島は鉄道がなく、伊豆急の開通は長く望まれていたものだった。伊東で一泊した次の日、両親は開通したばかりの伊豆急で下田まで初乗りを計画してくれてとても嬉しかった。 その旅行では東京からの行きと帰りは車内で眠ってしまったようで、全く記憶がないのだが、伊豆急に乗っている間は眠気は吹っ飛んでいた。新車の匂いがする車内はどこもピカピカで清々しかった。
 小学校に上がり、暫くは地元の電車一辺倒であったが、5年生の夏休み、日帰りの海水浴を兼ねて再び伊豆急を訪れることにした。いや、むしろ記憶が薄れてしまった伊豆急の顔をもう一度しげしげと眺めてみたいのが主で、海水浴がついでと言った方が正しい。その時はクモハ110の高運転台の増備車を見ることができて大きな収穫だった。
 伊豆急の100系は京急の1000系に似て、貫通扉の窓は目いっぱい幅が広いのだが、その割には左右の窓の幅がやや狭く、若干バランスに欠けていると思った。けして美形ではないのだが幌を装着した様は惹かれるものがあった。
 中学へ進んだ頃は顔だけでなく、食堂車や1、2等合造車など珍しい車両にも興味が湧いて、写真を撮ることを目的に何回も訪れたものである。伊豆高原駅の検収車庫に見学を申し込み、案内して頂いた所員の方と親しくなり、存分に写真を撮ることができた。中学2年の時に訪れた際には初めてスカートを取り付けたクハ150を見て、全車に装着されることを願っていたが、残念ながら普及はしなかった。
 観光資源に依存した路線であったが、マイカー客に押されて次第にローカル線と変わりなくなった。リゾート21なる新車の投入はあったが、開業当時の100系はおよそ40年近く現役として働き、JR113系のお下がりにバトンタッチしていった。私にとって電車らしい顔と思える最後の世代が伊豆急の100系であった。

エッセイ目次に戻る