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回想録 旧国鉄電車編

 母親の実家が渋谷にあったので、渋谷駅は当時の国電を観察するには格好のポイントであった。昭和30年代は渋谷へ出かけると言えば東横デパートであった。今もあるかどうか判らないが、デパートの北側に面して山手線を原宿の方角に望むことができる場所があり、親が買い物をしている間は山手線と貨物線を行き来する列車を眺めたものである。
 当時の山手線は先頭になる車両はクモハ11やクモハ73、クハ79が殆どであったが、その中でも半流のクモハ60は私にとっては別格だった。初めて見た時の強い印象は今でも鮮烈に覚えている。今まで見ていたどの顔よりも強くカーブした具合はとても精悍に見えて、当時人気のアメリカからやってきたテレビドラマ、”ララミー牧場”に出てくる主人公を連想させた。日本人のような”醤油顔”ではなく、”ソース顔”なのである。
 なぜ?と問われても説明できないのだが、それを自分で、”はんけつでんしゃ”と呼んでいた。その時は”半流”という用語はまだ知らなかったので、全くの自分流の”オノマトペ”である。小学校に上がる前なので、”はんけつでんしゃが来るまで待っている!”と親を困らせたものだった。
 暫くして遂にその時は来た。それは飯田橋の病院に伯母を訪ねて代々木から初めて総武線に乗った時であった。千葉寄りの先頭車はクモハ41の半流であった。運転席のすぐ後ろに陣取って、短いけれども幸福な時間であった。
 小学校に上がると、町田に引っ越した叔母を訪ねて小田急線に乗るために武蔵小杉から登戸まで南武線に乗るようになった。南武線でも昭和30年代末頃はクモハ41を良く見ることができた。
 ボーイスカウトの遠足で横浜線に初めて乗ったのもその頃であった。当時の横浜線は単線で、のどかな田園風景の中を走るローカル線であった。そこでもクモハ41が活躍しており、街の中を走り抜ける山手線とは違ってまた良い物だった。やはりボーイスカウトの遠足で奥多摩の日原鍾乳洞へ行ったときは青梅線。帰路に氷川駅(現奥多摩駅)から乗ったのは両運転台のクモハ40であった。当時のクモハ40は進行方向左側の運転席だけが壁で仕切られていて、右側はポールで仕切られた解放式であった。私達はポールの直後にあるシートに陣取って、終点の立川駅まで車掌さんとずっと話をしながら帰ったのは楽しい思い出である。
 そのようなわけで、私にとって国電と言えば半流以外は目に入らなかったというのが正直なところである。

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