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回想録 東急編

 家の前を東横線が走っていたのでホームグラウンドである。私の幼年時代は雨蛙の愛称で親しまれた5000系の活躍した時代であるが、当時は戦前生まれの3450系の方が気に入っていた。貫通扉が付いた顔の方が湘南型のような2枚窓より好きだった。3450系は登場時は非貫通であったが、桜木町事件の教訓からか、当時の東急は積極的に貫通化改造を進めており、幌を備えたその顔になんとも言えない魅力と親しみを感じていた。ただ、おしむらくは、貫通扉の窓の高さが左右の窓より若干高いことであった。
 総勢50両の中でも3両だけ両運転台のまま残り、たまに電気機関車代わりに貨車を引っ張る姿が特に印象深かった。同じ戦前派の3500系は窓が大きく軽快な感じだが、3450系も更新の際に3500系と同じ高さまで窓が拡大され、アルミサッシ化された。個人的にはオリジナルの窓の高さの方が好きだった。
 昭和30年代当時は国鉄の戦災車両を修復したものが多数存在しており、特にクハ3770系は窓の大きさが不揃いだったり、雨樋の形状が直線だったりカーブを描いていたり、屋根のカーブも様々で、大変にバラエティに富んでいた。ただ、これらの顔は皆、平妻であり、眉間にしわを寄せたような疲れ気味の表情は好きになれなかった。
 かつて昭和40年代半ばごろまで東横線の学芸大学と都立大学の間に碑文谷工場という車両工場があった。ここは更新工事や事故車両の修復、再塗装などを行う工場で、ちいさな車庫と草むした引き込み線があり、あそこで遊ぶことができたらどんなに楽しいだろうといつも思っていた。子供にとっても鉄道ファンにとってもユートピアのような存在であった。車庫の入り口はたいていカーテンが閉まっていたが、時々作業中の車両が顔をのぞかせていて、幌が外された顔や、塗装が剥がされた顔に胸をときめかせたものだ。この区間を通過する数秒ほどの、ほんの一瞬の楽しみであった。
 小学校に上がる前年に、家の2階の窓から突然ハワイアンブルーの電車が走っているのが見えた。伊豆急が開業前の試運転を行っていたもので、それまで見慣れていた東横線の車両がみんなガラクタに見えるほど眩しい姿であった。子供心にも新時代がやって来たような気がしたものだが、丁度その頃から東急は車両のステンレス化に邁進し始めた。しかし6000系、7000系、7200系、8000系とそれ以降、美人は出てこない。

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