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回想録 地下鉄編

 "渋谷駅から地下鉄に乗って"と言えば、昭和30年代は銀座線のことである。当時は東京で地下鉄と言えば営団銀座線と同、丸ノ内線しかなかった。昭和36年には日比谷線が、39年には東西線、43年には千代田線と続々と開業していった。
 当時、初めて銀座線に乗ったのは、祖母に連れられて三越デパートへ出かけた時であった。東横線の改札を抜けて階段を上るとなぜか地下鉄が空を走っているのだった。これは2011年の今現在も変わらない。東横デパートの3階から出発し、暫く空中を走ると青山方面に向かっていきなり地面に潜ってゆくのが遊園地のジェットコースターのようであった。
 当時の銀座線は開業当時からの100系や1000系が現役であった。窓が大きく、全面の貫通扉の窓が細く、ひょろ長いが几帳面そうな表情が好きだった。貫通扉の右脇には腰の高さほどしかない巻き取り式の転落防止用幌が装着されていたが、これを広げて使っている姿は見たことはなかった。100系や1000系は片隅運転台であり、その反対側は車両の最前部までシートが設置されているので、子供達の特等席であった。始点の渋谷駅のホーム最先端は大抵その席を狙う子供が並んでいるのであった。
 現代では考えられないことだが、先頭車の貫通扉は施錠されているのだが、乗客が簡単に解錠することができ、一度、友達と一緒に走行中に開けてみたことがあった。強い風圧にびっくりしてすぐ閉じたが、運転室から運転手が出てきて叱られやしないかとヒヤヒヤしたものだった。
 駅が近づいてくると一瞬、室内の灯りが消えて非常灯が点いたり、尺八のムラ息のようなタイフォンも銀座線ならではの懐かしい思い出である。
 後楽園に行った時に、丸ノ内線に乗ったが、こちらは貫通扉の窓の幅が広いところが好きにはなれなかった。貫通扉の窓は細いに限る。
 日比谷線が北千住〜中目黒間が全通し、初めて3000系を目にしたのは小学校3年生であった。貫通扉がすらりと細く、パノラミックウィンドウを採用したその顔は京王5000系に似て美人であった。貫通扉がつらいちになっていてつるりとしたところも好ましかった。乗り心地も直通乗り入れしていた東急の7000系のゴツゴツしたものよりはるかにソフトで、台車の違いに目が行くようになったのはこの頃のことである。
 小学校高学年になり、竹橋にある科学技術館を訪ねて東西線5000系に初めて乗った。つるっとして柔らかな表情の3000系に比べ、窓の大きさ、間隔は好ましいものの、3面折り妻の顔はそっけなく、いまひとつであった。
 鉄道車両の顔に一大異変が起きたように思えたのは千代田線の6000系の登場であった。3000系は"営団は先進的"というイメージを植え付けるに十分であったが、6000系はそれを飛び越えて、もはや電車の顔とは言えなかった。

 一方、東京の地下鉄に都営地下鉄が加わったのは昭和35年、浅草線が最初であった。この都営最初の5000系を初めて見たのは、小学校に上がる前に絵本でのことであった。全ての窓の天地寸法がきっちり揃っていて、子供ながらに、とても几帳面な印象をもったのである。
 続く、三田線用6000系にもそのDNAは受け継がれたが、ステンレス製の冷たい印象から ”鉄仮面” というあだ名を付けたものである。
 都営地下鉄は京急・京成と相互乗り入れすることで営業が始まったが、それまで全くお目にかかった事が無かった京成の3000や3100系を京急蒲田や横浜あたりで見かけると、遠い親戚の従兄弟に初めて会うような感覚で、ちょっと、ドキドキしたものである。

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