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回想録 小田急編

 小田急に初めて乗ったのは、初代流線型ロマンスカーの3000系である。小学校に上がる前、箱根への温泉旅行であった。昭和30年代は東京近郊では温泉旅行がブームで、旧国鉄も私鉄も温泉のある観光地への誘致合戦が盛んだった。
 東武は日光・鬼怒川温泉、小田急は箱根温泉とロマンスカー合戦も激しかったようである。ロマンスカーの切符を手に入れるのも大変だったようで、私の父も大分苦労したと聞く。当時の子供の背の高さでは気がつかなかったが、今、当時の写真を見ると3000系の屋根はとても低くかったことが判る。電車というよりまさに飛行機の胴体であり、顔というイメージは湧いてこなかった。
 小学校に上がった年に、叔父が江ノ島に連れていってくれた。渋谷駅から山手線に乗り、新宿で乗り換えた。相模大野までは何に乗ったのか記憶が曖昧なのだが、江の島線では茶色の旧型車両であったことははっきり覚えている。それは1400系であった。運転席はポールで仕切られたタイプで、前方が良く見渡せた。当時の相模大野から藤沢までの区間は時々、松林が見える野原が広がっており、遠くへ来たことを実感させられたものであった。
 それから2年後の昭和39年、ボーイスカウトの夏のキャンプは御殿場へ向かって新宿からキハ5000系準急に乗った。当時は初代の黄色と紺色の塗り分けからクリーム色に朱色の帯に塗色が変更された後で、東横線や山手線でロングシートしか知らなかった自分には、クロスシートはとても新鮮だった。御殿場線に入ってからは迫りくる山肌や次々とやってくるトンネルや鉄橋に仲間と歓声を上げたものだ。キハ5000の前面は旧国鉄のモハ40系半流とおなじぐらいカーブが深く、なかなかハンサムで好みだった。
 同じ年、町田に引っ越した叔母を訪ねて登戸から当時の新原町田まで小田急をよく利用するようになった。当時は2200系や2400系が主役だったが、私は更新されてHゴム顔になった1900系の方がお気に入りであった。
 小田急は昔から先頭車に幌を付けていないのだが、2200系や2400系はどうも締まりがなく、好みではなかった。

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