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制動手 Jimmie Rodgers
カントリーミュージックとカウボーイハットの関係

もくじ

機関士という仕事
Jimmie Rodgersの生涯
制動手の消滅

機関士という仕事

 日本における古い鉄道写真で、機関車を前にして学生服のような詰め襟に制帽を被った男達が佇む集合写真を見かける。 恐らく新しく開通する鉄道の記念写真であろう。
 明治5年に英国から技術導入して開業した陸蒸気は現代ならさしずめスペースシャトルといったところだろうか? 当時の機関車というものはスペースシャトルに匹敵する最先端技術の塊であり、それを操作して人や荷物を運ぶ機関士は、特殊な教育を受け、訓練を経た選ばれた人間にのみ許された宇宙飛行士のような職業であったと想像される。当時の写真の彼らの誇りに満ちた表情がそのことを示しているのではないだろうか?
 では、当時の先進国ではどうだったのだろうか? アメリカの西部劇映画に鉄道が登場すると身を乗り出してしまうのだが、多少脚色されている部分はあるかもしれないが、当時の鉄道マンの仕事ぶりが伺い知れて面白い。特に印象深い映画は、比較的新しいもので ”バック・トゥ・ザ・フューチャー_PART3” を思い出す。
 落雷で1955年から西部開拓時代の1885年にタイムスリップしてしまった主人公 ”マーティー” と友人科学者、”ドク” が未来へ戻るための手段を思案していると、”この機関車ならカマをガンガンに焚いて、真っ平らな場所で貨車を一輌も引いていなければ時速80マイルくらいは出るかもしれないぜ!” と言うセリフを吐く機関士が登場する。(映画の中ではタイムスリップに必要な時速140Km/h=88マイルだそうだ)
 その機関士の様相を見ていると、とても宇宙飛行士のような選ばれた人間には見えないのである。1885年当時はアメリカのいたるところで鉄道が営業していた時代なので既に普通の職業になっていたのだろう。そして、”ドク”の話相手をしながら油さしを手にして機関車の下廻りに注油して動き回る姿が印象深い。先端技術の塊とは言うものの当時はまだ現代のオイルシールという、注油した油が隙間から洩れ出ることを留めるメカニズムが無く、決められた距離を走ったら停車する度に注油していたようである。機関士の服装が ”つなぎ=Over All” であるのはこうした理由であろう。Over Allが当時のアメリカにおける機関士の正装だったようである。
 オイルシールというメカニズムは戦前からあったが、当初は革やフェルトを使っており、少なからず漏れることを前提にしたものであった。化学工業の発展に伴い材質が合成ゴムに代わり、漏れが留るのは戦後の1950年代とのことである。(Hゴムの登場もこの時期である) 従って機関車だけでなく、自動車や機械全般は見えない部分は油にまみれているのが当たり前だったらしい。(読み物:
技師 下山定則では、轢死体に付着していた油を巡って自殺・他殺説が対立していた)
 こうしてみると、西部開拓時代の頃から既にアメリカでは宇宙飛行士どころではない、機関士の仕事はキツイ、汚い、危険、3拍子そろった3K職業だったのかもしれない。

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Jimmie Rodgersの生涯

 さて、ここに一枚のポートレートがある。この男は "ジミー・ロジャース" という人物で、アメリカの伝説の歌手である。登場した時代と、歌のスタイルからカントリーミュージックの父と称せられている。そして ”The Singing Brakeman” という愛称でも呼ばれている。 頭の ”The" が示すように、唯一無二、偉大な歌手であったと言われているのだが、”The” は ”Brakeman” に掛っているとみてもよいであろう。
 ”Brakeman” は制動手という意味だが、これも機関士や機関助手と同じように初期の鉄道ならではの専門職だそうである。鉄道開業の頃は機関車自身にはブレーキが装備されていたが、貨車や客車には装備されておらず、各車輌に制動手が便乗し、機関士が鳴らす汽笛の合図でブレーキを掛けていたそうである。こうした事から、仕事仲間から”名制動手”と称される人物像が思い浮かぶのである。
 ウィキペディアによると、彼は1897年9月8日、ミシシッピー州Meridianの生まれで、モバイル&オハイオ鉄道の保線班長だった父親からいろいろな鉄道の職種や "Hobo" と称される、貨車に潜り込んで仕事を求めて各地を巡る労働者(フーテンも居たようだが)の生き方を教わったとある。 少年の頃の最初の仕事は給水手 ”Waterman” で、ほどなくしてニューオーリンズ&ノースイースタン鉄道で制動手の職に就いたそうである。13歳頃から芸能の世界に興味を持っていたが、27歳の時に旅回りの一座を旗揚げし、サウスイースト地方を巡業していたものの、サイクロンでテントを飛ばされたことを契機に東海岸のフロリダで制動手に戻っている。肺結核を患っていることが判ると療養を兼ねて乾いた気候の西部のアリゾナに移り、そこでは転轍手 "Switchman" に就いている。やはり制動手は身体にきつい仕事だったのであろう。 仕事柄、アメリカ各地を巡るいろいろな職業の人間と接する機会があったようで、その人々から各地のフォークソングを教えてもらったことが後年、歌手として身を立てる一助になったと言われている。
その各地のフォークソングというのが、西部のカウボーイの愛唱歌や、東部のアパラチアン山岳地帯の樵の仕事歌だったり、南部の黒人のブルースやゴスペルなどであり、アメリカのルーツミュージックを広くカバーしていたことが彼をカントリー音楽の父と呼ぶ所以だそうである。
 彼は、1927年にテネシー州Bristolで当時、ビクター蓄音機の代表者であった "Ralph Peer" なる人物が主催したレコーディングオーディションに応募し、美声と驚くべきレパートリーの豊かさ故に見事、合格してレコードデビューとなった次第である。これがアメリカにおけるレコード産業の発祥でもあったそうである。デビュー後は大ヒットとなり、歌手として多忙を極めるが、肺結核の療養に専念するすることもままならず、1933年5月26日に35歳という若さでこの世を去ったとある。
 さて、彼のポートレートを見ると、Over Allを着て ”制動手あがり” を売り物にしたプロモーション写真と思われるが、当時の制動手はこんな出で立ちだったのだろうか。蝶ネクタイが歌手を示すアイテムなのであろう。機関士と比べると、その仕事の難易度や危険度はどんなものであったろうか? ウィキペディアによると、車輌の屋根から屋根へと走り回り、(ランボード=runing boadはここから来ている)転落したり挟まれたりの危険な仕事であり、地位も賃金も低かったようである。
 しかしながら、当時は”制動手”という職業が一般に馴染みがあったのであろう、 ”The Singing Brakeman” とは ”苦労を知る者” として、大衆音楽の世界では一種の誇りではなかっただろうか? 1929年から始まった大恐慌の暗い世相を背景に大ヒットした理由も少なからずそのあたりにあったのではないだろうか。

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制動手の消滅

 一方、彼が産まれる28年前の1869年の時点ではエジソンのライバルであった "ジョージ・ウェスティングハウス" なる技術者が、列車の各車両でブレーキを掛けられるエアブレーキシステムを開発し、1872年には特許まで取得されていた。
 ウェスティングハウスは制動手の危険な作業の撤廃や作業ミスによる衝突事故の防止を考えていたのだが、ジミー・ロジャースが仕事に就こうとしていた頃にもまだ制動手という職業が残っていたのであろう。 いつの世も同じだが、新しい技術や産業の隆盛によってそれまでの仕事を奪われる人々も居たであろう。 制動手廃止反対運動も起きていたのであろうか?  
 もしジミー・ロジャースが制動手という職を選びようが無かったとしたらどうであろうか?  ”The Singing Waterman” や ”The Singing Switchman” では一般の人々にはピンと来なかったのではないだろうか? 客車や貨車の屋根の上を軽業師のように走り回る制動手は、もしかしたら日本の江戸時代の街火消しのような、粋で華のある職業だったのかもしれない。 いずれにしても ”The Singing Brakeman” は彼の愛称としてとても具合が良かったのであろう。
 また、給水手や転轍手のような職種では汽車に乗務しないのであるから、行動範囲は限られ、彼のレパートリーにも少なからず影響していたかもしれない。

 ところで、先述のレコーディングオーディションをチャンスにスターダムに登った歌手は二組居たのである。そのもう一組とは、A.P・カーターとその妻、サラ、そしてA.P・カーターの弟の妻、メイベル・カーターの3人組=カーターファミリーであった。こちらは東部アパラチアン山岳地帯に伝わるフォークソングをレパートリーにしていたので、ジミー・ロジャースのアメリカ各地のフォークソングの博覧会というキャラクターとは違っていた。
 このような事から、もしジミー・ロジャースが豊富なレパートリーを持ちあわせておらず、オーディション合格の決め手に欠いていたとしたら、歌手、ジミー・ロジャースは産まれていなかったかもしれない。そうであるなら、現在のカントリーミュージックは少し違ったものになっていたかもしれない。
 例えば、カントリーミュージックの衣装にカウボーイハットは欠かせないものだが、カーターファミリーは東部アパラチアン山岳地帯のヴァージニア州出身であり、元々カウボーイの土地柄ではない。これもジミー・ロジャースのおかげかもしれない。
 やはり現代の私たちがこうして豊かな文化を楽しめるのは、汽車が人を乗せ、文化を運んだからではないだろうか?


ジョージ・ウェスティングハウス(1846-1914)


カーターファミリー
左からメイベル(1909-1978)、A.P.(1891-1960)、サラ(1898-1979)

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参考サイト&文献
ジミー・ロジャース オフィシャルサイト
ボブ・アーティス著 東理夫訳 ブルーグラス 晶文社刊

 


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